有能な現場責任者は、なぜ切られたのか——今川了俊・九州探題解任の真相

歴史比較

通説は「将軍・足利義満が、力をつけすぎた了俊を恐れて切った」と語る。だが実際は違う。了俊は上から切られたのではない。横の協力関係を自ら壊し、立ち行かなくなったのだ。義満はむしろ最後まで彼を支援していた。そして——この解任劇の本当の敗者は、了俊ではなく義満その人だった。さらに切られた後、了俊は批判者へと転じ、後世には「武士の模範」として再評価される。

はじめに——九州をほぼ平定した男が、なぜ更迭されたのか

応永2年(1395年)閏7月、一人の有能な武将が京都へ召還された。事実上の更迭である。今川了俊(貞世)。室町幕府の九州探題として二十年以上にわたり南朝勢力と戦い、ほぼ九州全土を幕府の支配下に収めた、押しも押されもせぬ実力者である。

普通に考えれば、これほどの功績を上げた人物が更迭されるのは不可解だ。だからこそ古くから、この解任には「裏」があると見られてきた。将軍・足利義満が、力をつけすぎた了俊を警戒し、九州大名の讒言を利用して失脚させた——いわゆる「義満策謀説」である。有能な部下が、その有能さゆえに主君に疎まれて消される。判官贔屓の物語として、これはよくできている。

だが、近年の研究はこの筋書きを根底から覆した。了俊は、上から切られたのではない。彼は自分自身の手で、足元の協力関係を崩していったのである。そして皮肉なことに、この解任で最も多くを失ったのは、了俊ではなく義満だった。

本稿では、堀川康史氏の研究を軸に解任の実像をたどり、さらに解任後の了俊が見せた意外な「第二幕」までを追う。

一 今川了俊という名探題

今川了俊は、駿河今川氏の一族に生まれた。武将でありながら歌人・学者としても一流で、和歌・連歌・有職故実に通じた当代きっての文化人でもあった。後年、彼が著した軍記・回想録『難太平記』は、今川家の由緒を語ると同時に、当時の幕府政治への辛辣な批評を含む史料として知られる。この「筆を執る武人」という性格は、のちの彼の運命を理解するうえで重要な伏線となる。

応安4年(1371年)、了俊は九州探題に任じられた。当時の九州は、南朝方の征西府(懐良親王と菊池氏)が圧倒的な勢力を誇り、幕府の支配はほとんど及んでいなかった。了俊はここに乗り込み、調略と軍事を巧みに使い分けて南朝勢力を切り崩していく。大宰府を奪回し、菊池氏を追い詰め、二十年をかけて九州の大半を幕府方に転じさせた。

これは並の人物にできる仕事ではない。遠隔地で、現地勢力の利害が複雑に絡み合う中、軍事と外交を同時にこなし、成果を出し続けた。了俊は疑いなく有能だった。問題は、その有能さが、ある時点から「敵を作る力」へと反転していったことにある。

二 通説「義満の警戒・讒言説」とその限界

了俊の解任理由については、長らく多くの説が唱えられてきた。

川添昭二氏は、幕政中枢(斯波義将)の思惑や、南北朝合体に伴う政策転換、大内・大友氏の讒言を挙げた。佐藤進一氏は、義満による権力確立過程の一環として、探題の自立化への警戒や東アジア外交の主導権奪取を重視した。村井章介氏は了俊の自立的な対外交渉を、山口隼正氏は了俊による九州の領国化への義満の警戒を、それぞれ解任の背景として論じている。

これらに共通するのは、「義満が了俊を危険視した」という前提である。有能で自立的な探題を、中央が警戒して切った——大筋でそう語られてきた。

しかし、これらの説には弱点があった。いずれも「解任に至る具体的な政治過程」の復元が不十分なのである。なぜ、ほかでもない応永2年というその時期に、どのような経緯をたどって解任に至ったのか。その直接の説明が欠けていた。

近年、呉座勇一氏・新名一仁氏は、南九州における島津氏平定の失敗、すなわち了俊の「九州経営の行き詰まり」に注目した。そして堀川康史氏は、解任直前の政治過程を史料に即して丹念に復元し、決定的な新解釈を提示する。鍵は、義満の思惑ではなく、九州における了俊と現地大名との関係の崩壊にあった。

その崩壊は、二つの亀裂として進行した。

三 第一の亀裂——島津氏との和平を守れなかった

第一の亀裂は、南九州の島津氏との関係に生じた。

もともと了俊は、反島津派の国人(在地領主)たちを束ねて島津氏を追い詰めていた。ところが明徳2年(1391年)、幕府主導で島津元久との和平が成立し、島津氏は幕府方に帰参する。中央から見れば、敵が味方になったのだから歓迎すべき展開である。

だが現場には、深刻な矛盾が生まれた。島津氏の地位を保障するということは、これまで探題方として島津氏と争ってきた国人たちの権益——とりわけ島津氏との係争地——を脅かすことを意味した。彼らは了俊を信じて島津と戦ってきたのに、その了俊の上司である幕府が、敵だった島津を許してしまう。梯子を外された格好である。

不満を抱いた薩摩・大隅の探題派国人は、明徳3年(1392年)、独自の一揆を結成した。「知行分をまたくせんかため(自分たちの領地を守るため)」を掲げ、島津氏の敵対行為に備えるという。了俊は当初、この一揆に自制を求めていた。中央の和平方針と、現地国人の利害との板挟みになったのである。

しかし、島津氏が探題派国人(高木氏ら)への攻撃に出ると、了俊はもはや国人たちを見捨てられなかった。明徳5年(1394年)2月以降、彼は島津氏との和平を破棄し、再び戦端を開く決断を下す。

これは、了俊が「中央の和平」と「現地の信頼」のどちらも取れなかったことを示している。和平を守れば国人が離れ、国人を守れば和平が壊れる。彼は後者を選び、結果として幕府の方針に反して島津氏と再び敵対する立場に立った。

四 第二の亀裂——大友の内訌に踏み込み、三氏すべてを敵に回す

第二の亀裂は、より致命的だった。豊後の大友氏で起きた深刻な内部抗争への、了俊の介入である。

大友氏では、嫡流の大友親世と、探題方に近い庶家との間で対立が燻っていた。そこで、了俊と密接な関係にあった有力庶家・吉弘氏郷が、嫡流の親世によって誅殺される事件が起きる。探題派(田原氏・吉弘氏ら)と大友嫡流の衝突が、いよいよ表面化した。

ここで了俊は、将軍直臣であった田原氏信らを全面的に支援し、大友親世との武力衝突に踏み込んだ。他家の家督争いに、探題が一方の肩を持って介入したのである。

この介入が、了俊を一気に孤立させた。

第一に、大友親世が了俊と断交し、反探題の急先鋒となった。第二に、親世と縁戚関係にあった大内義弘が動く。大内義弘は両者の和解を斡旋しようとしたが、了俊はこれを拒絶した。この拒絶により、それまで協力者だった大内氏との関係まで冷え込んだ。第三に、島津氏が親世・大内氏と連携し、反探題で結束した。

こうして応永2年(1395年)3月までに、了俊は「大友・大内・島津」という九州の主要三氏すべてを同時に敵に回した。九州を統治するために置かれた探題が、九州の有力大名すべてと敵対する。これでは経営など成り立つはずもない。了俊の九州支配は、ここで実質的に行き詰まった。

注目すべきは、これらの亀裂のどれ一つとして、義満が仕向けたものではないという点である。和平の破棄も、内訌への介入も、和解斡旋の拒絶も、すべて了俊自身の判断だった。彼は無能だったのではない。むしろ有能で、決断力があったがゆえに、次々と踏み込み、次々と敵を作っていったのである。

五 義満は、最後まで了俊を支えていた

ここに、堀川氏の研究が示す最も意外な事実がある。義満は、解任の直前まで了俊を支援していた、というのである。

応永元年から2年初頭にかけての史料を見ると、義満はむしろ了俊の権限を補強しようとしていた形跡が濃い。応永2年正月の『京都不審条々』には、次のような措置が並ぶ。九州における恩賞給付の権限を探題に一本化し、国人らが京都へ直接訴え出ることを禁じる。島津氏の領地を闕所(没収地)として了俊に与えることを保障する。将軍直臣である小番衆の選抜を、了俊の推薦に基づくものとする——いずれも、現地における了俊の権限と求心力を高めようとする内容である。

さらに義満は、肥後の阿蘇氏に対して了俊の代官(今川直忠)への協力を命じ、了俊の解任を取り沙汰する「荒説風聞」をわざわざ否定して、探題の命令に従うよう通告している。つまり、解任の噂が現地に流れていたまさにそのとき、義満は「了俊を切る気はない」と公式に火消しをしていたのである。

では、なぜ義満は方針を転換したのか。決定打となったのは、応永2年閏7月に了俊が京都へ召還された後の事態だった。了俊が現地を離れると、九州情勢は「無尽之錯乱」と呼ばれるほど一気に悪化する。日向の国人らが離反し、探題派の基盤そのものが崩壊していった。

有力大名がこぞって了俊を拒絶し、現地の秩序が音を立てて崩れていく。この現実を前に、義満は了俊の留任は不可能だと判断せざるを得なかった。解任は、義満が「したかったこと」ではない。九州経営の継続が物理的に不可能になった末の、「せざるを得なかった苦渋の決断」だったのである。

通説の因果は、ここで逆転する。義満が了俊を切ったから九州支配が終わったのではない。了俊が現地の協力関係を失い、九州支配が立ち行かなくなったから、義満は了俊を切るしかなかったのだ。

六 真の敗者は義満だった——「遠国融和策」とその代償

了俊の後任として探題となった渋川満頼は、まったく異なる方針を採った。大友・大内・島津といった有力大名を取り込み、彼らの協力を前提として九州統治を組み立てたのである。

一見、現実的な路線変更に見える。だが、これは裏を返せば、幕府がもはや有力大名の意向を無視できなくなったことを意味した。了俊の時代には、探題が将軍の権威を背負って大名を従えていた。渋川の時代には、大名に協力を「お願いする」立場へと後退したのである。

ここで失われたものを、具体的に見ておきたい。了俊の探題体制は、単なる軍事指揮権ではなく、九州の武士たちを幕府に直結させる経済的な装置を備えていた。その中核が半済、すなわち荘園年貢の半分を兵粮として武士に預け置く制度である。菱沼一憲氏の分析によれば、了俊はこの半済を、大宰府周辺、豊後国東半島、肥前・筑後の境界域といった軍事上の要衝に集中的に配置し、今川一族・被官はもとより、大友一族の庶家や松浦・彼杵の一揆にいたるまで、兵粮給付を通じて探題のもとに組織していた。国人たちが了俊に従ったのは、忠誠心だけの問題ではない。探題が、彼らの生計と権益を直接保障する存在だったからである。

この給付網こそ、幕府が大名の頭越しに九州の武士をつかむ独自の経路だった。了俊の失脚と探題派国人の崩壊は、この経路の喪失を意味した。以後の幕府は、九州の武士に手を届かせるにも、九州の実情を知るにも、大友・大内・島津という大名のフィルターを通すほかなくなる。「遠国融和策」とは、方針の選択である以前に、選択肢の喪失だったのである。

ここから室町幕府は、遠国に対する姿勢を大きく転換させていく。将軍の強力な主導による直接支配を放棄し、現地の秩序を現地大名の主導に委ねる。遠国のことは「少々のことは意に沿わなくとも、適当なところで差し置く」。この事実上の放任が、以後の常態となった。

この転換の代償は、後年に具体的な形で現れる。応永26年(1419年)、朝鮮軍が対馬を襲撃した「応永の外寇」のときである。このとき九州で防衛にあたった少弐満貞は、幕府への報告で、襲来した朝鮮軍や中国船の規模を大幅に誇張して伝えた。朱雀信城氏は、その背景に、勢力の衰えた少弐氏が、新たな探題・渋川満頼との競合の中で自らの存在価値を中央に印象づけようとした事情を見ている。佐伯弘次氏が論じるように、応永の外寇をめぐる情報は、明・朝鮮・琉球を含む東アジアの動向と神国思想の高揚の中で、各地から錯綜して伝わった。中央が遠国の実態を正確に把握できず、現地勢力の「盛った」報告に振り回される——独自の情報経路を持たない幕府には、もはやその報告を検証する手立てがなかった。探題の給付網とともに、幕府は九州を見る自前の目を失っていたのである。

了俊の解任劇の「真の敗者」は、了俊自身ではない。九州における直接支配の拠点を失い、有力大名の主導権を認めざるを得なくなった足利義満その人だった。一人の有能な探題が現地で孤立したことが、結果として幕府の遠国統治の形そのものを変えてしまったのである。

七 解任の後——批判者・反逆者となった了俊

物語には、まだ続きがある。

職を解かれた了俊は、おとなしく隠退したわけではなかった。応永6年(1399年)、大内義弘が幕府に反旗を翻した「応永の乱」が起きると、了俊はこれへの関与を疑われる。かつて九州で関係を冷却させた相手であるはずの大内に通じたとされたのは皮肉だが、いずれにせよ了俊は、義満に弓を引く側の人物として疑いの目を向けられた。

そして彼は、筆でも戦った。『難太平記』に見られる義満への批判は鋭く、自らの功績が正当に報われなかったことへの憤りがにじむ。Jeremy Sather氏の研究によれば、了俊は孟子の思想を援用して、自らの抵抗を正当化したという。孟子の説く理路——主君への忠誠は無条件ではなく、主君が徳を失えば臣下の服従の義務も消える——は、了俊にとって、報われなかった自分の立場を支える論理だった。徳なき主君は、もはや主君ではない。だとすれば、それに抗うことは反逆ではない、というわけである。

この「忠誠は無条件か」という問いは、奇しくも権力の正統性をめぐる古くからの主題に通じる。天命を失った者は位を保てないとする易姓革命の発想は、為政者の側から見れば自らの正統性を支える論理であり、臣下の側から見れば抵抗を支える論理にもなる。了俊は後者の立場から、それを握ったのである。

興味深いのは、後世の評価である。同時代の史料において、了俊はしばしば「反逆者」に近い色合いで描かれる。ところが時代が下り、江戸時代になると、了俊はむしろ武士の道徳的模範として称揚されるようになる。主君のために尽くし、学問にも秀でた理想の武人——そうしたイメージである。Sather氏は、この同時代評価と後世評価の落差を主題として論じている。

同じ一人の人間が、ある時代には「反逆者」とされ、別の時代には「模範」とされる。評価とは、その人物の中に固定された性質ではなく、それを読む時代の側が決めるものなのだ。

おわりに——有能さは身を守らない

今川了俊の生涯から、二つのことが見えてくる。

一つは、有能さは身を守らない、ということである。了俊は確かに有能だった。九州をほぼ平定したのは、彼の力量にほかならない。だが彼を失脚させたのは、能力の不足ではなく、関係の崩壊だった。和平を守れず、内訌に踏み込み、和解を拒み、味方になりうる相手を次々と敵に変えていった。決断力という長所が、孤立という結果を招いた。上司の義満はむしろ最後まで彼を支えようとしていた。彼を切ったのは、上ではなく、横で崩れていった信頼の方だったのである。

もう一つは、切られた者への評価は、時代とともに変わるということだ。同時代に「反逆者」とされた了俊は、後世に「模範」とされた。その時代の評価が、最終的な評価とは限らない。

有能でありながら孤立し、報われずに去り、それでも筆を執って自らの正しさを訴え続けた一人の武人。彼の物語は、力とは何か、忠誠とは何か、そして評価とは誰が決めるのかという問いを、今なお投げかけている。

参考文献

  • 堀川康史「今川了俊の探題解任と九州情勢」『史学雑誌』第125編第12号、2016年、1-24頁
  • 菱沼一憲「南北朝期半済制度の再評価——兵粮料所預置制度として」『国史学』第230号、2020年、59-96頁
  • Jeremy A. Sather, “Rebel with a Cause: The (Im)Morality of Imagawa Ryōshun,” Japan Review 28 (2015): 47-66.
  • 朱雀信城「応永の外寇と少弐氏」『太宰府の文華:公文書館だより』第7号
  • 佐伯弘次「応永の外寇と東アジア」『史淵』第147号、2010年、17-37頁
  • 川添昭二/佐藤進一/村井章介/山口隼正/呉座勇一・新名一仁(今川了俊探題解任をめぐる諸説)

📝 この記事の現代ビジネス・組織論への応用はnote「『優秀なのに切られる人』は、上ではなく横を見ていない」

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