目次
- 一 二頭、あるいは三頭 ── 尊氏・直義・師直は何を分け持ったのか
- 二 副将軍・直義という人物 ── 「廉直」の統治者
- 三 「理非」の統治 ── 建武式目と土岐頼遠裁断
- 四 仏国土への意志 ── 夢窓疎石・怨親平等・『夢中問答』
- 五 もう一つの原理「実効」 ── 高師直と執事施行状
- 六 追加法第七条から観応の擾乱へ ── そして敗者の原理が制度になった
- 結びにかえて 二元論という物差し
一 二頭、あるいは三頭 ── 尊氏・直義・師直は何を分け持ったのか
初期室町幕府の統治は、足利尊氏とその弟・直義(一三〇六〜一三五二)による権限の分割を基礎として出発した。一三三八年、尊氏が征夷大将軍に、直義が左兵衛督に任じられ、両者は「両将軍」とも称される。
従来この分掌は、尊氏が軍事指揮・新恩給付・守護補任を握る「主従制的支配権」を、直義が民事裁判(所務沙汰)と所領安堵を握る「統治権的支配権」を担う、という二元構造として整理されてきた。佐藤進一が定式化したこの図式は、長く初期幕府理解の基軸であり続けた。
ただし、実態はむしろ三つの極から成っていた。尊氏のカリスマ、直義の法、そして尊氏の執事・高師直が握った軍事と恩賞の実務である。この三者の役割の違いは、恩賞の与え方にすでに表れている。尊氏は、自らの母衣を裂いて与え、手近な紙や、時には自身がかぶる皮の冠にまで官職を書きつけて与えたと伝えられる。制度を超えた、人格と即興による恩賞——これが尊氏の求心力の源泉であった。
直義は、その対極にいた。彼が立てようとしたのは、人格ではなく法と手続によって動く秩序である。尊氏が象徴的・人格的な権威の中心であったとすれば、直義は統治の中身そのものであった。そして両者の間に、「実効」を武器とする第三の極・高師直が育っていく。
二 副将軍・直義という人物 ── 「廉直」の統治者
直義とは、いかなる人物だったか。兄弟が帰依した禅僧・夢窓疎石は、直義を廉直で偽りのない人物と評したと伝えられる(『梅松論』)。
廉直、すなわち心が清く、私曲のないこと。年頭や八朔の贈答儀礼においても、直義は進物を受け取らなかったと伝えられる。規律と公正によって秩序を立てようとする、ストイックな統治者像がここにある。
兄・尊氏の人物像は、これと鋭い対照をなす。湊川合戦に勝ち、京都を制圧した絶頂期に、尊氏は清水寺へ「この世は夢のごとし、早く隠退したい」という趣旨の願文を奉納したと『太平記』神田本は伝える。戦場では死を恐れぬカリスマを発揮しながら、内面では出家を願い引きこもる——尊氏の行動原理は、天下への野望よりも肉親への情愛にあったとされる。
情と人格の尊氏、規律と理非の直義。この対照こそが、二頭政治の安定と、やがての破綻の双方を準備していた。
三 「理非」の統治 ── 建武式目と土岐頼遠裁断
直義の統治を貫いた原理は、「理非」——道理の当否を第三者的に裁定する公正——にあった。
その思想は、彼が主導した『建武式目』(一三三六年公布)に明瞭である。式目は為政の要をこう述べる。
居処の興廃は、政道の善悪によるべし。
都を置く場所の盛衰は、結局のところ政道の善し悪しによって決まる、と。場所ではなく、政治の中身こそが国の興廃を決する。
式目はまた、その末尾で理想とすべき先例を掲げる。
遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪ひ、近くは義時・泰時父子の行状を以て、近代の師と為し、殊に万人帰仰の政道を施されば、四海安全の基と為すべきか。
古くは延喜・天暦の聖代に学び、近くは北条義時・泰時父子の善政を範とし、万人が仰ぎ慕う政道を行えば、天下安泰の基礎となろう——鎌倉幕府全盛期の法と秩序を模範に据える、直義の構想の骨格である。
そして「理非」は、理念にとどまらなかった。康永元年(一三四二)、功臣・土岐頼遠が光厳院の行列に狼藉を働く事件が起きる。足利直義に従い数々の戦功をあげ、建武五年(一三三八)正月の青野原の戦いでは北畠顕家の西上を美濃に迎え撃った、歴戦の功臣であった。各所から助命嘆願が相次いだが、直義の裁断は揺るがなかった。これほどの大罪を緩く見逃せば、今後の悪事の積み重ねを招く——そう判断した直義は、頼遠を斬罪に処したと伝えられる。相手が功臣であろうと、法は曲げない。直義の「理非」とは、人格や功績による例外を認めない、第三者的な秩序への意志であった。
四 仏国土への意志 ── 夢窓疎石・怨親平等・『夢中問答』
直義の統治理念は、宗教構想においてさらに大きく展開する。元弘以来の戦没者を弔うため、彼は全国六十六か国に安国寺と利生塔を一基ずつ設置した。仏教を基盤とする国家、「仏国土」の建設である。
この事業の根には、夢窓疎石の唱えた「怨親平等」——敵味方を分けへだてなく弔うという思想——があった。後醍醐天皇の菩提を弔う天龍寺もまた、同じ精神から創建されている。内乱で割れた秩序を、宗教によって回復しようとする試みであった。
その思想的背景は、直義と疎石の禅問答を記した『夢中問答』にうかがえる。直義は疎石に、政治と善根をめぐる率直な問いを投げかけている。あまりに善根(仏道への善行)に心を傾けると、かえって政道の妨げとなり世が治まらない——そう説く者がいるが、その理屈は正しいのか、という問いである。
疎石の答えは、善根と政道を対立させる俗説を退けるものであった。仏法のために世法(政治)を興すことこそ為政者の務めであり、万民を導く為政者は出家せずとも「在家の菩薩」たりうる、と。善政と仏道は矛盾しない——この確信が、直義の「仏国土」事業を支えていた。
法による秩序(理非)と、仏法による平和(仏国土)。直義は、武力と恩賞による人格的支配とは異なる原理を、統治の根幹に据えようとしていた。
五 もう一つの原理「実効」 ── 高師直と執事施行状
だが、幕府の内部には、直義の「理非」とは異質な原理が育ちつつあった。尊氏の執事・高師直を中心とする、恩賞の「実効性」を重んじる論理である。
南北朝の内乱期という文脈を、ここで確認しておく必要がある。南朝は単なる「もう一つの朝廷」ではなく、随時、武士を切り崩す実力を持つ競合勢力であった。恩賞の認定や訴訟の裁定が遅れれば、待ちきれない武士が南朝へ寝返る——これは観念的な脅威ではなく、現実の政治的リスクだった。速さは、武士の支持を幕府につなぎとめ、軍事的優位を維持するための統治上の武器だったのである。
恩賞は、与えるだけでは意味をなさない。実際にその所領を支配できて初めて、報酬となる。だが現実には、紙の上で恩賞を得ても土地を押さえられぬ武士が多くいた。この不全を埋めたのが、師直の発給する「執事施行状」であった。将軍の恩賞充行下文を、執事が直接守護へ命じて執行させる——迅速で、実効性が高い。亀田俊和の研究によれば、この施行状を発給する機関こそ「仁政方」であり、それは執事の管轄下にあった。施行権を握ることは、そのまま権力の源泉となったのである。
師直の体現した原理は、しばしば法や権威を踏み越えた。『太平記』巻二十六は、師直が家人に対し、たとえ将軍の命令書(御教書)であろうと実力で押さえて知行してしまえ、と説いたという逸話を伝える。法も権威も、結果の前では手段にすぎない。直義が「正しさ」なら、師直は「速さ」であった。そして恩賞の実現を待つ武士たちの支持は、しばしば速さの側に集まった。
六 追加法第七条から観応の擾乱へ ── そして敗者の原理が制度になった
膨張する執事権力に対し、直義は制度によって対抗を試みる。暦応四年(一三四一)に定められた追加法第七条である。亀田の論証によれば、この法令は、仁政方(師直管轄)が担っていた施行状発給の手続を、直義の直轄機関「引付方」へ移管することを定めた。狙いは、施行状という権力装置を師直の手から取り上げ、その権勢を抑えることにあった。
だが、追加法第七条は事実上機能しなかった。執事施行状のほうが実効性が高く、武士・寺社は有益なその施行状を手放さない。師直は法を無視して施行状を発給し続けた。幕府法が現場で空文と化すという事態は、組織規律の崩壊を意味し、直義派による強引な親裁権拡大とあいまって、幕府内に深刻な亀裂を生んだ。
対立は、やがて武力衝突へ転化する。一三四九年、師直に追い詰められた直義は政務を退いて出家する。翌一三五〇年、尊氏が直冬討伐のため京を離れた隙に、直義は京都を脱し、敵対していたはずの南朝に通じて挙兵した。一三五一年、打出浜の戦いで直義方は尊氏方を破り、高師直・師泰兄弟は討たれる。しかし優勢は続かない。今度は尊氏自身が、直義追討の大義を得るために南朝と和睦し、北朝が一時廃される「正平一統」が成立する(一三五一年)。態勢を立て直した尊氏に敗れた直義は、鎌倉へ追い込まれた。そして翌一三五二年二月、和睦のわずか後に急死する。享年四十七(数え年)。毒殺の噂が流れたが、自然死とする見方も有力である。
ここに、この内乱の最も深い皮肉がある。直義は敗れた。だが勝ったのは、尊氏個人ではなかった。擾乱後、直義が守ろうとした評定・引付の裁判体制は形骸化し、彼が否定しようとした執事施行状のシステムこそが、「管領施行状」として制度化されたのである。細川・斯波・畠山の三管領による体制は、師直が築いた執事施行システムを継承・発展させたものにほかならない。室町幕府は、理念的な裁判国家ではなく、命令の下達と現地での実効を優先する政権へと傾いていった。
直義は、自らの命とともに「理非」を失っただけではない。彼が敗れたことによって、敵の原理である「実効」が、幕府の恒久の骨格そのものになったのである。
結びにかえて 二元論という物差し
最後に、本稿の出発点であった二元論に立ち返りたい。
「尊氏=主従制的支配権/直義=統治権的支配権」という佐藤進一の整理は、両者の役割を機械的に割り振る分類として提示されたのではない。近年の議論が示すように、それは現実と完全に一致する「答え」ではなく、人格的な主従支配と、第三者的な法的支配とが、一つの政権のなかでどうせめぎ合ったかを読むための「物差し」である。
その物差しが測っていたのは、恩賞と奉公に基づく人格的支配と、第三者的な裁判・法的秩序とのあいだで、足利政権がどれだけ揺れ続けたか、であった。直義の政治とは、人格的な主従関係がそのまま公的権力として作動してしまう中世社会のただなかで、いかにして法的・第三者的な統治を成立させるか、という試みにほかならなかった。
その試みは、敗れた。土岐頼遠を斬った「理非」は、高師直の説いた——御教書すら押さえて知行せよという——「実効」の前に屈し、しかもその「実効」は、勝者の手で永続する制度へと鋳直された。観応の擾乱とは、二つの統治原理の不両立が臨界に達し、一方が他方を呑み込んだ瞬間の名であった。
足利直義という副将軍の生涯は、統治における正しさと実効性の関係を——そして、組織が最終的にどちらの原理によって自らを形づくるのかを——いまなお問いかけている。
主要史料・参考文献
〔史料〕『建武式目』/『梅松論』/『太平記』(神田本、巻二十六ほか)/夢窓疎石『夢中問答』
〔研究〕
- 亀田俊和「南北朝期室町幕府仁政方の研究」『史林』89巻4号、2006年
- 亀田俊和「南北朝期室町幕府研究とその法制史的意義――所務沙汰制度史と将軍権力二元論を中心に――」『法制史研究』第68号、2019年
- 亀田俊和「初期室町幕府体制の『滅び』――『三条殿』体制と将軍足利尊氏の大権行使――」『史林』第105巻第1号、2022年
- 森茂暁「足利直義発給文書の研究」『福岡大学人文論叢』45巻4号、2014年
- 森本朱音「初期室町幕府における足利直義の政治――裁許下知状から見える政治思想――」『奈良史学』40巻、2023年
- 中田伸一「足利直義論」『小山工業高等専門学校研究紀要』第36号、2003年
- 丸山裕之『図説 室町幕府(増補改訂版)』戎光祥出版、2024年


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