「万人恐怖」の果てに——足利義教はなぜ家臣に殺されたのか【嘉吉の乱】

歴史比較

この記事のポイント

  • 足利義教は「くじ引き」という神意によって選ばれた将軍であり、当初は儀礼と制度改革によって権威を構築する合理的な政治家だった
  • 将軍を抑えてきた重鎮の死と外敵の消失が重なったことを境に統治は苛烈化し、「万人恐怖」と呼ばれる粛清政治へ傾いた
  • 嘉吉の乱での暗殺と、その後の幕府の機能不全は、恐怖で代用された正統性がいかに脆いかを示している

序——祝宴の席で、将軍の首が落ちた

嘉吉元年(1441年)6月24日、京都の赤松邸で宴が開かれていた。関東の結城合戦の戦勝を祝う席である。主賓は室町幕府第6代将軍・足利義教。酒が回り、座敷では猿楽が演じられていた、その最中だった。屋敷の奥から轟音が響き、障子が開け放たれ、武装した武士たちが乱入する。将軍は、その場で首を打ち落とされた。

同席していた大名たちはどうしたか。管領・細川持之をはじめ、ほとんどの者が戦わずに逃げ散った。応戦した者はわずかである。大内持世は深手を負って後日落命し、京極高数は奮戦のすえ討死、細川持春は片腕を失った。

家臣が将軍を殺す。室町幕府にとって前代未聞の凶行である。だが当時の人々の反応は、現代人の想像とは少し違う。伏見宮貞成親王は日記『看聞日記』にこの事件を書き留め、将軍の死を「自業自得」と評した。将軍がこのように犬死するとは古来聞いたことがない——同情ではなく、突き放した筆致である。

後世、義教は「暴君」の型として消費されてきた。呉座勇一氏が紹介するところでは、江戸末期の浮世絵師・歌川貞秀は、幕府の検閲を避けて本能寺の変を描くために、織田信長の最期を「足利義典公」の姿に借りたという。苛烈な専制君主が我が身を滅ぼす物語の主役として、義教はちょうどよかったのである。

しかし、一次史料と近年の研究が描く義教は、単純な暴君ではない。むしろ権威の作り方を熟知した、合理的な政治家だった。ではなぜ、その合理的な政治家が「万人恐怖」と呼ばれる統治に行き着き、最古参の功臣に首を落とされ、誰にも守られずに死んだのか。本稿はその過程を追う。

くじ引き将軍の誕生——神意という正統性

応永35年(1428年)正月、第4代将軍・足利義持が後継者を指名しないまま危篤に陥った。義持の言い分はこうである。自分が指名しても、有力守護たちが従わなければ意味がない。後継は皆の協議に委ねる——。

困り果てた重臣たちに、幕府の政治顧問というべき醍醐寺の満済が示した案が、くじ引きだった。候補は義持の弟4人。石清水八幡宮の神前でくじが引かれ、青蓮院門跡の義円、後の義教が選ばれた。

将軍をくじで決めると聞けば、現代人は権力の堕落や行き詰まりを連想する。だが近年の研究は、これを当時の文脈における合理的な「神判」として読み直している。桜井英治氏が指摘するように、くじには飯粒を練った糊で封をするなど、厳重な不正防止の措置が施されていた。誰の作為も入り込めない形式を整えることではじめて、結果は「疑いようのない神意」になる。くじ引きとは、有力守護たちの思惑がぶつかって幕府が割れるのを防ぎ、誰も異を唱えられない一致を作り出すための装置だったのである。

——とはいえ、これを冷めた政治技術としてだけ読むのは、当時の人々の心性を取り違える。神仏の意思が現実に働くという感覚は、この時代には生々しい実在だった。約束を違えれば神罰が下ると本気で信じられていればこそ、起請文に神々の名を連ねて誓うことに意味があり、白黒のつかぬ訴訟は神慮を仰ぐ「神判」に委ねられた。くじは権力者を黙らせる方便である前に、本当に神の手が選ぶと信じられた儀式である。だからこそ結果は重みを持った。装置として機能したのは、人々がそれを装置と見ていなかったからにほかならない。

そして、この信仰のリアリティは、選ばれた本人にこそ最も濃く働く。くじは義教に、「自分は神に選ばれた」という強烈な自負を植え付けたのである。

その自負は、就任の直後から顔をのぞかせている。象徴的なのが、実名の決定をめぐる一幕だ(『建内記』)。還俗した義円は当初「義宣」と名乗ったが、これが不吉とされ、漢字の音を分解して吉凶を読む「反切」という秘伝的な知識に基づいて「義教」へと改められた。このとき、宿老の畠山満家が議論の輪から外されている。満家に学がなかったわけではない。音の吉凶を読むという特殊な作法を持ち合わせていなかっただけである。候補に挙がった「吉増」の名が、音を組み合わせれば「逆」に通じるとして退けられた、という具合の議論に、歴戦の宿老は加われなかった。神意と、反切のような秘伝の知。義教は、神に選ばれたという出自と、ふつうの武士の素養の外にある特殊な作法とを権威の源泉に据え、有力守護を意思決定から締め出す形を、最初から作り始めていた。

ここで思い出したいのが、本ブログで取り上げた桓武天皇である(正統性を作り直した天皇——桓武はなぜ都を二度捨てたのか)。桓武もまた「薄い正統性」から出発した君主だった。母の出自ゆえに本来は皇位に届かないはずだった桓武は、遷都と征夷という実績を積み、系譜の解釈を作り直すことで、正統性を自前で構築していった。では、神意という出来合いの正統性を与えられた義教は、それをどう厚くしていったのか。

実は彼も、最初は正攻法を知っていた。

義教は無能な暴君ではない——儀礼と改革による権威構築

「万人恐怖」の語の強烈さもあって、義教には恐怖政治の印象がつきまとう。短気で、猜疑心が強く、手当たり次第に人を罰した暴君——通説的な義教像はおおむねこの線である。だが治世の前半を見ると、まったく別の顔が浮かび上がる。

まず、儀礼の使い方が際立ってうまい。吉田歓氏が分析した永享4年(1432年)3月の花見である。義教は摂政・二条持基や一条兼良ら公家の最上層を同道させ、途中で互いの行列を見せ合うという凝った演出を仕込んだ。将軍家の行粧が摂関家のそれと並んで見劣りしない——つまり将軍家は摂関家と同格であると、都の衆目に対して可視化したのである。この花見は同時に、前年に没した日野栄子の影響力からの脱却を示し、新しい御台所・三条尹子を披露する場でもあった。一度の「遊び」に、対朝廷・対家中の意味を幾重にも畳み込んでいる。

歴代将軍と比べると、この特異さはいっそう際立つ。尊氏・義詮の時代に花見はまれで、義満が遊覧を重ねたのは将軍退任後、義持も在任中はほとんど行っていない。就任初期からほぼ毎年、大規模な花見を挙行したのは義教だけである。強制ではなく、人が自ずと集まってくるという「求心力」の所在を、遊びの場で示す。この日詠まれた義教の発句「花も今日友まちゑたるさかり哉」は、摂関家を「友」と呼びつつ、その友を待たせる側に自分を置いている。

朝廷との距離の詰め方も、計算され尽くしている。石原比伊呂氏が分析した後花園天皇の室町殿行幸では、義教は表向き左大臣として臣下の礼を尽くしながら、天皇と同じ御簾の内に伺候し、食事や酒を共にするという破格の近さを演出した。形式の上では臣下、実態としては天皇の「身内」。この二重写しを都の人々に見せることで、将軍家の格は言葉で主張するまでもなく伝わっていく。

制度面でも義教は改革者だった。訴訟の処理を迅速化し、奉行衆という実務官僚と、奉公衆という将軍直轄の軍事力を整備した。大名たちの合議に諮る代わりに、一人ひとりから個別に意見を聴く方式を採り、大名同士が結束して将軍に対抗する余地を狭めながら、最終決定権を自分の手元に集めた。強引ではあるが、設計としては筋が通っている。

対外政策も、当初は意外なほど抑制的である。亀ヶ谷憲史氏の研究によれば、義教の対関東政策は一貫した討伐路線ではなかった。鎌倉公方・足利持氏が義教の将軍就任に反発し、改元を無視するなどの挑発を重ねても、義教は「天下無為」——天下の平穏——を掲げ、永享3年(1431年)にはいったん和睦している。軍勢を率いて富士を遊覧し、持氏の膝元で勢威を見せつけるという威圧も使ったが、それはあくまで戦わずに従わせるための演出だった。関東管領・上杉憲実を融和の要として重んじ、憲実を介して持氏を抑える間接統治も併用している。

儀礼で権威を演出し、制度で実務を握り、外には硬軟を使い分ける。この時期の義教は、権威構築の正攻法を知り尽くした政治家である。「無能な暴君」という像は、少なくとも治世前半には当てはまらない。

だとすれば、問いはこう変わる。権威の作り方を知っていた男が、なぜそれを捨てて恐怖に頼ったのか。

「万人恐怖」——なぜ統治は苛烈化したか

転機を一つの事件に求めることはできない。だが構造として見ると、義教の周囲で二つのものが立て続けに消えている。

第一に、抑え役が消えた。義教の独走をなだめ、大名たちとの間を取り持ってきたのは、宿老・畠山満家と、くじ引きを献策した満済である。その満家が永享5年(1433年)に、満済が永享7年(1435年)に相次いで世を去った。将軍に「それはなりませぬ」と言える人間が、幕府からいなくなった。

第二に、外敵が消えた。融和路線の破綻後、義教は永享10〜11年(1438〜39年)の永享の乱で持氏を滅ぼした。このとき義教は、後花園天皇から治罰の綸旨を得ている。足利一門の貴種であり鎌倉公方という公的な地位を持つ持氏を討つには、将軍の上意に天皇の権威を重ねる必要があったのである。そして嘉吉元年(1441年)4月には、持氏遺児を擁した結城合戦も終結する。幕府を脅かす外敵がいる間は、大名たちの軍事力が必要であり、彼らへの配慮も必要だった。外敵が消えれば、その配慮の理由も消える。矛先は内側へ向かった。

義教は有力守護家の家督相続に次々と介入した。斯波、畠山、山名、一色、赤松。当主の代替わりや内紛に乗じて意に沿う者を据え、守護家の自立性を削いでいく。永享12年(1440年)5月には、大和に在陣中の一色義貫と土岐持頼を、陣所を襲わせて誅殺した。両名とも幕府の軍役を務めた功労者である。罪状を示して裁いたのではない。軍役の最中を狙った、だまし討ちだった。没収された所領は、義貫を討った武田信栄をはじめ、細川持常、一色教親ら将軍側近に分け与えられた。大名たちの目には、もはや功績は身の安全を保障しないこと、そして誰かの没落がそのまま側近の利得になる仕組みができあがったことが、はっきり見えたはずである。

恐怖は武家にとどまらなかった。永享6年(1434年)、義教の勘気を被って蟄居していた公家・裏松義資のもとへ、男子誕生の祝いを述べに訪れた公家や武士ら60余人が、それだけの理由で一斉に処罰された。ほどなく義資自身が何者かに暗殺されると、今度はその黒幕について雑談した前参議・高倉永藤が、所領没収のうえ流罪に処されている(青山英夫氏)。比叡山の中堂炎上について噂話をした商人が処刑されてもいる。何が逆鱗に触れるかは、もはや誰にも読めない。貞成親王は早くも永享3年の時点で、義教の政治を「薄氷を踏む時節」と書き留めていた。それが永享7年(1435年)には、こう変わる。「万人恐怖、莫言々々」——万人が恐怖している、言うな、言うな。

この「言うな、言うな」こそ、義教の統治が行き着いた場所を正確に言い当てている。人々は処罰を恐れて口を閉ざした。口を閉ざすとは、悪い報せと諫言が将軍に届かなくなるということである。義教の耳に入るのは無難な報告だけになり、軌道を修正する機会は組織の側から消えていった。

付け加えるなら、義教が好んだ「個別聴取」の統治は、もう一つの副産物を残していた。大名たちは将軍と一対一で向き合わされ、互いに何を話したかを知らない。隣の大名が将軍に何を吹き込んだのか、自分の何が報告されているのか、誰にも分からない。大名同士の結束を防ぐための分断は、そのまま大名同士の相互不信として組織に沈殿していった。この不信が後にどんな形で幕府の足を縛るかは、次章で見ることになる。

一方、追い詰められた家臣団の側も、座して待っていたわけではない。この時代の武家には「主君押し込め」という対抗手段があった。将軍の怒りを買った当主を、家臣たちが「狂乱」「病気」と称して強制的に隠居させ、当主個人を切り捨てることで「家」そのものの取り潰しを防ぐのである。嘉吉元年(1441年)正月には、関東出陣に難色を示して義教の勘気を被った畠山持国が、家臣団の手で家督から外され、義教の意に沿う弟・持永が当主に据えられた。そして赤松家でも、一色・土岐誅殺の直後にあたる永享12年(1440年)6月、「次は赤松」の噂が流れるなかで、家臣団が当主・満祐を「狂乱」と称して押し込めている。ほかならぬ満祐自身が、家を守るために切り捨てられる側を、一度経験していたのである。主君の首をすげ替えてでも家を残す——中世の武家を貫くこの論理を、もう一段押し進めたところにあるのが、将軍その人の首をすげ替えるという発想である。

嘉吉の乱——「やられる前にやる」

赤松満祐は、成り上がりの側近ではない。赤松氏は円心・則祐以来、足利尊氏の幕府草創を軍事的に支えた最古参の功臣であり、播磨・備前・美作三カ国の守護を務める宿老の家である。

もっとも、幕府と赤松氏の間に張り詰めたものがあったのは、義教の代が初めてではない。義満・義持の時代から、幕府は山名氏や大内氏といった大守護の力を削ぐことを繰り返しており、大族である赤松氏もまた警戒の対象だった。満祐自身、義持の処遇に憤って京都の屋敷を焼き払い、領国播磨へ引き上げるという挙に出たことがある(播磨下国事件)。功臣の家であることと、幕府に警戒される家であることは、両立する。むしろ功臣の大族だからこそ、削る側の標的になる。その緊張の上に、義教の「万人恐怖」が乗ったのである。

こうして満祐は、将軍殺害という選択に追い込まれていく。

直接の引き金が何だったのかは、史料の上では確定できない。義教が満祐の所領を、寵愛する分家の赤松貞村に与えるつもりだという噂。だが噂だけではなかった。永享12年(1440年)3月には、満祐の弟・赤松義雅の所領が現実に没収され、満政・貞村ら近習に分配されている(森茂暁氏「赤松満政小考」)。割き取りは、すでに赤松の家の内側まで及んでいた。当主を「狂乱」として差し出す押し込めを経てなお、圧力は止まらなかったのである。さらに渡邊大門氏が重視するように、領国播磨では土一揆が起き、年貢の減免を求める動きが激化して、赤松氏の領国支配そのものが揺らいでいた。満祐の挙兵計画が露見しかけたためだとする見方もある。いずれにせよ確かなのは、一色義貫の末路を見ていた満祐にとって、「次は自分だ」と考えるだけの材料が揃っていたことである。待てば、だまし討ちに殺される。ならば、やられる前にやる——。

嘉吉元年6月24日の経過は、冒頭に述べたとおりである。結城合戦の戦勝祝いという名目で将軍を自邸に招き、猿楽の最中に殺害した。

注目すべきは、その後の諸大名のふるまいだ。『看聞日記』は逃げ散った大名たちを「未練」——意気地なし——と指弾している。だが大名たちの側に立てば、これは合理的な行動だった。主君の死んだ現場で無益に命を捨てることは、江戸時代の武士道ならともかく、中世の武家にとっては自分の「家」を危うくする無責任でしかない。さらに討伐軍の編成も遅れに遅れた。誰が赤松と通じているか分からない。迂闊に動けば、共謀を疑われるかもしれない。互いが互いを疑う疑心暗鬼のなかで、大名たちは静観を選んだ。義教が作り上げた相互不信の構造は、義教の弔いの局面でそのまま幕府の足を縛ったのである。

満祐の側も、自暴自棄の凶行に走ったのではなかった。播磨に下った満祐は、足利直冬の孫にあたる義尊という人物を擁立し、文書を発して諸大名に呼びかけている。義教を除き、別の足利氏を将軍に立てる——つまりこれは「将軍のすげ替え」を狙った政変の構想だった。だが、呼応する大名は現れなかった。幕府は赤松旧領を恩賞として山名持豊(宗全)らを動かし、9月、播磨の城山城が落ちて満祐は自害する。乱は2カ月余りで決着した。

こうして経過をたどると、嘉吉の乱には分かりやすい悪人がいないことに気づく。満祐は家の存続のために先手を打ち、大名たちは家の存続のために逃げ、あるいは静観し、山名は家の伸長のために兵を出した。誰もが自分の持ち場の合理に従って動いた。その合理の集積が残したのは、将軍の死体と、それを誰一人守らなかったという事実である。

一夜で崩れた専制——徳政一揆と幕府権威の失墜

義教の死後、彼が築いた専制の蓄積はどれほど幕府を支えたか。答えは、ほとんど何も支えなかった、である。

後継に立てられた義教の嫡男・千也茶丸(義勝)は8歳。実権を担うべき管領・細川持之には、義教のような統制力はなかった。そして将軍権力の空白は、武家の外からも突かれることになる。

赤松討伐に兵が出払い、京都の守りが手薄になった嘉吉元年の夏から秋、近江・山城の土民数万が蜂起した。嘉吉の徳政一揆である。一揆勢は京都の出入口である七口を封鎖し、都への物資の流れを止めた。都市まるごとの兵糧攻めである。掲げた大義は「代始めの徳政」——将軍が代替わりするときには、債務は破棄されるのが習わしである、と。

幕府の対応は迷走した。持之は土倉——当時の金融業者——から鎮圧の見返りとして1,000貫文もの礼銭を受け取りながら、一揆の勢いを前に鎮圧を断念し、受け取った銭を返却している(『建内記』)。そして一揆側の要求には、周到な仕掛けがあった。彼らは土民の債務だけでなく、公家や武家の借金も含めた「身分を問わない一律の徳政」を求めたのである。都の支配層をまるごと徳政の受益者に変えてしまえば、鎮圧の旗を振る者はいなくなる。処罰を逃れるための、見事な巻き込み方だった。幕府は全面的に屈服し、初めて公式の徳政令を発布した。

幕府権威の失墜を示す出来事は、もう一つある。赤松討伐に際して、幕府は後花園天皇に治罰の綸旨を求めた。綸旨を仰ぐこと自体は、義教も永享の乱で行っている。だがあのときの相手は、足利一門の貴種であり、鎌倉府の長という公的な地位を持つ持氏だった。一門の長を討つために天皇の権威を借りるのと、主君を殺した一守護を討つのに綸旨がなければ軍を動かせないのとでは、意味がまるで違う。逆臣の討伐という、本来なら幕府の「上意」一本で立つはずの大義すら、外部の権威に裏打ちしてもらわなければ重みを持たなかった。義教が一身に集めた権力は、その一身が消えると、幕府の命令の重みごと消えていたのである。

その後の展開は駆け足で記す。討伐の主力だった山名氏は赤松旧領の播磨・備前・美作を手中に収めて急速に台頭し、幕府内の勢力均衡は崩れた。このとき生まれた山名氏と(後に再興される)赤松氏の遺恨は、四半世紀後の応仁の乱の火種の一つとなる。幼将軍・義勝は就任からわずか8カ月で夭折した。義教が積み上げたはずの将軍権力は、彼の死とともに消えただけではない。幕府そのものの求心力を道連れにしたのである。

結——正統性は構築できるが、代用はきかない

桓武天皇と足利義教。二人はよく似た場所から出発している。本来ならその座に届かないはずの、薄い正統性しか持たない君主。そして二人とも、権威を演出する技術には長けていた。

分かれたのは、その先である。桓武は薄い血統という弱みを、遷都と征夷という実績で塗り重ね、系譜の解釈を作り直すことで、在位のうちに正統性そのものを厚くした(正統性を作り直した天皇——桓武はなぜ都を二度捨てたのか)。だから桓武の権力は、本人の死後も揺らがなかった。一方の義教は、神意という与えられた正統性を、人々の承認によって厚くする手前で、恐怖によって防衛する道に入った。諫言は途絶え、功臣は脅え、組織は沈黙した。

二人の出発点には、もう一つ見落とせない非対称がある。桓武の神聖さは、自ら系譜を編み直して人為で作り出したものだった。作った本人は、それが作られたものであることを知っている。対する義教の神聖さは、神の手から授かったものである。神判の実在を疑わぬ時代にあって、授かった当人がそれを本物と信じ込むのは、むしろ自然なことだった。自前で構築した正統性には、どこかにそれを相対化する醒めた目が残る。授かった正統性には、それがない。義教の自負が歯止めを失っていく素地は、神意を本気で畏れた時代の信仰そのもののなかに、はじめから埋め込まれていたのである。

誤解のないように言えば、恐怖は機能していた。義教の治世、幕政は回っていたのである。訴訟は捌かれ、命令は実行され、逆らう者はいなかった。短期的に見るかぎり、恐怖は承認の代用品として十分に働く。だからこそ、有能な統治者ほどこの代用品に手を伸ばす誘惑にさらされる。

だが、代用品の正体はトップの消失とともに露呈する。承認でつながれた組織には、トップが代わっても「この体制を守りたい」と思う構成員が残る。恐怖でつながれた組織には、恐怖の源泉が消えた瞬間、何も残らない。赤松邸で逃げ散った大名たちは、義教を見捨てたのではない。守る理由を、最初から与えられていなかったのである。

最後に、この話のいちばん不気味な部分を確認しておきたい。義教は無能だったから恐怖に頼ったのではない。有能で、しかも「神に選ばれた」という正しさの自負があったからこそ、諫言を必要とせず、処罰をためらわず、恐怖への傾斜に歯止めがかからなかった。無能な暴君なら、周囲が早くに見限り、押し込めの装置が働いたかもしれない。有能で正しい自負を持つ者の専制こそ、止める者がいない。

正統性は、構築できる。だが、代用はきかない。同じ「薄い正統性」から出発した桓武と義教の明暗は、その一点にかかっている。

参考文献

  • 渡邊大門『嘉吉の乱――室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、筑摩書房、2022年
  • 森茂暁『室町幕府崩壊――将軍義教の野望と挫折』角川選書、KADOKAWA、2011年
  • 桜井英治『室町人の精神――日本の歴史12』講談社学術文庫、講談社、2009年
  • 青山英夫「室町将軍足利義教とその時代」『上智史学』第59号、2014年11月
  • 亀ヶ谷憲史「足利義教期の対関東政策」『史林』第105巻第6号、2022年11月
  • 吉田歓「足利義教と花見」『国史談話会雑誌』第56号、2015年12月
  • 石原比伊呂「室町殿行幸にみる足利義教の位置づけ」『青山史学』第29号、2011年
  • 森茂暁「赤松満政小考――足利義教政権の一特質――」『福岡大学人文論叢』第42巻第3号
  • 丸山奈巳「室町幕府六代将軍足利義教時代の猿楽の場についての考察」『日本建築学会計画系論文集』第85巻第772号、2020年6月
  • 呉座勇一「【呉座勇一の日本史講義】嘉吉の乱を考える(前編・後編)」(YouTubeチャンネル「春木で呉座います。」)
  • 史料:伏見宮貞成親王『看聞日記』、万里小路時房『建内記』

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